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ポーランド史

この記事の目次

ポーランド王国の成立とモンゴル軍の侵入

ポーランド王国の成立

民族大移動期にマジャール人の圧力を受けた西スラブ民族が移住。10世紀に有力部族であるポラン族によりピアスト朝ボーランド王国が成立。

モンゴル軍の侵入

13世紀、バトゥ率いるモンゴル軍が侵入。ボーランド・ドイツ騎士団連合軍は敗北。この頃, ドイツ人の東方植民が進み,13世紀バルト海沿岸にドイツ騎士団領が成立,プロイセンの母体となる。

カシミール大王による中央集権化

13世紀にカシミール大王(カジミエシュ3世)が現れ,中央集権化を進め,都市の自治制を拡大して貿易を促進し、クラクフ大学を設立したが,彼の死で王朝は断絶した。

ヤゲロー朝(1386~1572)

リトアニア=ポーランド王国の成立

1386年、バルト海東南岸のリトアニア大公ヤゲローはドイツ駿士団に対抗するため,ポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、キリスト教に改宗してヤゲロー朝を創始した。1410年にはドイツ騎士団を破り,ハンガリー・チェコの王位を兼ねる王も現れて,中世ヨーロッパの大国となった。

選挙王政期

選挙王政への移行

1572年ヤゲロー朝は断絶して選挙王制となり、王権の衰退と有力貴族の抗争によって国力が衰退していった。17世紀半ばのロシア・スウェーデンの侵入で領土は半分に縮小し,国威は哀えた。1733年にはじまるポーランド継承戦争ではフランスのルイ15世が介入し,露・墺2国と争って,これがボーランド分割の発端となった。

ポーランド分割

ロシアのエカチェリーナ2世が親露貴族を王位につけ、併合を図るとプロイセンはオーストリアとともにポーランドの分割を提案し1772年に第1回のポーランド分割、1793年に第2回のポ分割、1795年に第3回の分割によりポーランドは消滅した。

諸外国の支配

ワルシャワ大公国の建国

ナポレオンが晋・露と結んだティルジット条約で、ポーランド分割の結果プロイセンが得た地に,フランスの傀儡国家として建国。ナポレオンの没落で崩壊した。

ロシアの支配

ウィーン会議でロシア皇帝が王位を兼ねる自治王国となる。1830年ワルシャワでの反乱を機に自治権は奪われ、憲法は廃止された。ロシアの一州となり、完全にロシアの一部ととして統治された。

ポーランド共和国(1918~39)

ポーランドの独立

第一次世界大戦中ドイツ軍に占領されたが、ピウツスキーが独立を宣言。戦後ヴェルサイユ条約で承認。独裁体制がしかれ,仏・ソ・独と保全条約を結ぶ。

ドイツ、ソ連による占領と共和国臨時政府

1939年、イギリス、フランス両国と相互援助条約を結んだがドイツ、ソ連両国に占領された。政府はロンドンに亡命し,国内では1944年共産党が臨時政府を樹立。1945年、統一政府が成立。

ポーランド人民共和国(1947年~)

共産党による社会主義政権の確立と動揺

1947年、共産党が社会主義政権を確立。1956年スターリン批判の影響で、反ソ、反政府のポズナニ暴動がおこりゴムルカが第一書記となって非スターリン化に成功した。

1989年の民主革命

1970年、保守化したゴムルカが失脚し、ギエレクが第一書記となった。1980年経済政策に失敗したギエレクは自主管理労組(連帯)とスト権を認めて引退,カニアにかわる。連帯はワレサ議長の指導で自由化を主張。1981年カニアにかわった首相ヤルゼルスキは戒厳令を布告して軍政施行。1982年戒厳令解除され1989年には民主革命が起こり国名がポーランド共和国に変更される。

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