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タイ史

この記事の目次

スコータイ朝

スコータイ朝の建国

モンゴルの雲南侵入で13世紀頃、雲南から南下したタイ族が、1238年にスコータイ朝を開き、13世紀に領土を広げて繁栄した。

スコータイ朝の繁栄

この王朝の全盛期には中国と親交してその文化を取り入れ,タイ文字の原型などを創作したが、14世紀にはいると衰えてアユタヤ朝に変わった。

アユタヤ朝

アユタヤ朝の建国

1350年に,ラーマ=チボディー1世(在位1350-1369)がメナム川下流地方にアユタヤ朝を興し,ビルマ・マライ半島・カンボジアに侵入して国威を高め,明にも使節を派遣した。しかし,北方のチェンマイ王国やビルマのトゥングー王国との抗争に苦しめられた。

アユタヤ朝と海外との接触

1511年、ポルトガルとの交渉が始まり,17世紀にはいると,イギリス・オランダの商人やキリスト教宣教師が訪れた。

17世紀には日本人が移住して各地に日本町をつくり,商業・貿易を営んだ。

アユタヤ朝の滅亡

1767年、アユタヤ朝は、ビルマのアラウンパヤー朝によって滅ぼされた。

チャクリ朝

チャクリ朝の建国

アユタヤ朝のあと、タクシンのトンブリ朝(1767-1782)が成立して,ビルマの支配から独立を回復、バンコクに都を定めたが,その部下のチャオ=ピヤ=チャクリ(ラーマ1世)がチャクリ朝を開き,清の乾隆帝からシャム王に封ぜられた。

ラーマ5世による近代化

イギリスとは1826年に通称条約を結び、1855年には治外法権を付与した。フランスにはカンボジア(1867)・ラオス(1893)を与えることとなったが、英仏の緩衝国として王朝は維持された。

ラーマ5世は、多くの改革を実施して王国の近代化を進め、諸外国との平和の維持に尽くした。

無血革命による立憲君主国の成立

第一次世界大戦に連合国に参加して国際的地位を高め,1925年には欧米諸国との不平等条約の撤廃にした。しかし、専制君主的政治への批判が高まると、進歩的な人民党の無血革命を招き、1932年(ラーマ7世の在位中)には新憲法が発布されて立憲君主国になった。

ピブン首相の政治

革命後、クーデターによって首相となったピブンは枢軸国に接近し、1941年、日本と攻守同盟を締結し第二次世界大戦に参加した。

第二次大戦後の情勢

1958年、サリット元帥の軍部独裁体制が成立し、東南アジア条約機構の一員として、反共・親米路線を推進し、1963年にタノム軍事政権が成立し、東南アジア諸国連合に参加した。

軍事政権から文民政権へ

1973年10月、学生を中心とする反政府闘争でタノム政権が崩壊した。1977年10月のクーデタ以降、成立したクリアンサック政権は,言論統制の緩和、労働組合との協調など比較的柔軟な国内政策につとめた。その後、1980年にプレム政権か成立して文民政権の体制をととのえ、1988年からはチャチャイ政権が政党政治を推進した。

 タイの民主化

1991年2月,国軍による無血クーデタが起こった。

その後1992年の総選挙で軍部の政治介入を批判し、穏健民主化路線をとる 5党連立のチュアン政権が発足した。1996年から輸出不振が始まり、1997年7月に通貨下落によるバーツ危機が発生した。この結果、タイはIMF支援の条件受入れ国となったが、影響は他国へも大きく波及し、アジア経済の危機を引き起こすことになった。

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